「終戦間際に特攻隊に志願した!」
子どもの頃、耳にタコができるくらい父から聞かされました。
許可日、昭和20年8月5日、父・村田保18歳
学校を卒業後、自分の意思で決めて祖父に報告したところ「分かった」と返事をしてくれたという。
登録が許可されてから10日後に終戦を迎えた訳ですが、命を捧げようと決意した父の意思は本当に凄いことだと思います。
そして祖父や祖母の気持ちがどんなであったか計り知れません。
自分だったら何と答えるだろうか?
今の平和な日本があるのも約230万もの兵員と約80万人もの一般市民の尊い犠牲があったことを絶対に忘れてはなりません。
「神風特攻後続隊」の事を知覧特攻平和記念館と鹿屋航空基地史料館に問い合わたのですが、その存在のことは知らなかったので終戦間際に急ごしらえで編成された部隊なのかもしれません。
2017_09/05
子供の頃、父から良く聞かされました!
2015_12/21
沖縄戦跡視察!
何ごとも現地現場に行き、その場の空気を感じることは必要なことだと思っています。
過去の戦争で、多大な犠牲があったから今の平和があるということを絶対に忘れては行けません。
昨年は弊社の管理者と一緒に知覧特攻平和記念館を視察しましたが、
今年は上陸戦があった沖縄の戦跡地を視察してきました。
どのような悲惨な出来事があったのか・・・、ほんの一部だけですが肌で感じて帰ってきました。
・対馬丸記念館
・旧海軍司令壕
・ひめゆり平和記念資料館
・沖縄県平和記念資料館
以下沖縄戦についてWikipediaから抜粋。
「陸海空において日米の大兵力が投入された沖縄線」
使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風などと表現される。
日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人。
県外疎開や本島北部への避難が許可されたのは、60歳以上と15歳未満の者などに限られ、それ以外の人々は根こそぎ動員や徴用されたため戦場に取り残されることとなり、軍と住民が混在し、住民に多大な犠牲を出すことになった。
津市丸記念館 沖縄戦に備えて県外に疎開しようとした、たくさんの子どもたちを載せた輸送船が米潜水艦の魚雷で沈没。乗船者1788名(船員・乗船者)のうち8割が犠牲となる。
旧海軍司令豪跡地にある石碑・・・「軍艦大和」の名前も刻みこまれています。沖縄を襲撃する米艦隊迎撃のため、鹿児島県にある陸軍知覧基地や海軍鹿屋基地から数多くの神風特攻隊が出撃する。
ひめゆりの塔・・・「ひめゆり」の愛称で親しまれていた若い女学生240名が沖縄陸軍病院の看護要員として駆りだされ犠牲となる。
平和記念公園内にある平和の礎・・・各県の犠牲者の名前が石碑に刻み込まれています。
2015_12/02
沖縄 対馬丸記念館
「数多くの戦争犠牲者があったからこそ今の平和がある」ということを学ぶ為に、数年を掛けて弊社の部課長と一緒に全国の戦跡地を視察する予定にしています。
昨年は知覧特攻平和記念館に行きましたが、今回は沖縄でした。
「対馬丸記念館」
昭和19年(1944)7月、サイパン島が玉砕したことにより、アメリカはB29爆撃機で日本のほぼ全土を空襲できるように。
政府は老・幼・婦女子10万人を県外へ疎開するよう指示。同時に軍需物資の輸送も同時に行う事となり、輸送船は一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送する任務についていた。
対馬丸は学童集団疎開の子どもたちをたくさん乗せ8月21日に那覇港を出講しましたが、1788名を乗せた対馬丸は翌22日夜10時過ぎに米潜水艦の魚雷攻撃により海に沈められ、乗船者の8割が亡くなった。
「先生助けて!」「お母さん、お父さん助けて!」
対馬丸撃沈されたことは事件については緘口令が敷かれ極秘扱いになった。
対馬丸撃沈から49日後の10月10日には米機動部隊飲む差別爆撃が始まり、朝7時から夕方までに五次にわたり、都市部を含み飛行場や湾港などの軍事施設が空襲されたそうです。
沖縄には何回か来ていますが今回、このようなことがあったことを初めて知りました。
文章を読んだだけでは伝わらないことも、現地現場に行き、その場の空気を感じることで、より大きい学びが得られます。
対馬丸記念館