社長ブログ
溶射屋
日々の気づきを投稿中

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2025.01.22

中華料理で使う「れんげスプーン」の由来

中華料理の時に使うれんげスプーン。

なぜ「れんげ」というのか気になっていました。

正式名称は「散蓮華(ちりれんげ)」というそうです。

主に、中国や東南アジアで一般的に使われる陶製スプーン。

名前の由来は、

さじの形が蓮の花から散った花びらの一片に似ていることから付けられた。

「なるほどねぇ・・・!」

また一つ学ぶことができました(笑)

みなさんご存知でしたか?

 

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    2025.01.21

    江戸時代の「蕎麦」キッチンカー

    時代劇などで見かける江戸時代の移動そば屋。

    どのようなシステムになっているのか気になっていたので、調べてみました。

    冷たいそばなのかなと思っていましたが、主に暖かいそばだったらしいです。

    それにしても、装備を充実すればするほど重量が増えたことは間違いないので、移動する際は相当な重労働だったんでしょうね。

    ・・・・・・・・・・
    江戸でのそばの普及には、店を構えたそば屋だけでなく、夜そば売りが大きく貢献していた。

    夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになったのは、市中にそば屋が目立って増え始める18世紀半ば以降よりも、少なくとも20年ほど遡る。

    夜そば売りが重宝されたのは、ほかの飲食店が閉まっている夜中に営業していた。(夜9時から明け方まで)

    一定の場所に店を構えるのではなく、一人で担ぐ「担い屋台」で自由に場所を移動した。

    江戸時代には、大八車のように車輪のついた屋台はまだなかった。

    屋根には市松模様が描かれることが多く、風鈴が吊るされ、音で蕎麦売りの存在を知らせる役割を果たしていた。

    調理設備として、茹で釜と七輪が備え付けられ、その場で蕎麦を茹でて提供できる簡易調理システムが
    整っていた。

    担い屋台の構造と機能(一例)

    右側の箱(キッチンセット)
    上段:調味料(麺つゆ、唐辛子など)や燗酒用の道具。
    中段:茹で釜。
    下段:七輪と水桶。

    左側の箱(ストッカー)
    上段:蕎麦猪口やどんぶり
    中段:蕎麦やうどん玉を収納する棚
    下部:箸入れやその他の道具

    担い屋台そば

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    2025.01.20

    「さびしさを感じます!」

    昨年末の12月31日に、朝ランでいつも走っている道沿いにある、寿司屋に張り紙をしてあるのが気になりました。

    「12月31日を以って廃業致します。70年間有難うございました。」

    コロナによって激減した客足が戻らなかったか、後継者がいなかったか・・・・。

    昨年、同じく客が戻らず、閉店になった寿司店を知っています。

    中小企業はまだまだ厳しい状態が続いているのではないでしょうか?

    新店舗ができると嬉しいものですが、閉店となるとさびしさを感じます。

    廃業案内

     

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    2025.01.19

    ドクターイエロー、走行中の姿を見るのは最後かな!!

    昨日、12時49分にドクターイエローが静岡駅を通過するという情報を長女が教えてくれたので、妻と長女と孫の4人で見に行くことに。

    静岡駅新幹線ホームは情報を得たカメラ好きな方は親子連れが目立ちました。

    下りホームにはこだま号が停車することが分かっていたのでで上りホームへ。

    12時48分ごろ「東京行きこだまが間もなく到着します」とのアナウンスが流れました。

    上りこだま号が停車するとドクターイエローの雄姿を見ることができません。

    「早くこい!!」

    そう思っているうちに黄色い点が小さくみえ出しました。

    「きた~!!」

    JR東海に所属する走行するドクターイエローの姿をみるのはこれが最後かな。。。。。

    新幹線大好きな孫が大喜びでした。

    ドクターイエロー

     

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    2025.01.18

    「いい会社の3つの共通項目!」

    「いい会社の3つの共通項目」と大久保寛司さん

    1、心から湧き出る笑顔
    2、場の雰囲気がいい
    3、掃除が行き届いている

    人を大切にする経営を提唱されている坂本光司先生は、下記の3つを挙げています。

    1,事務所に入った時の空気感
    2、社員を大切にしている食堂か?
    3,トイレが綺麗か?


    私も少なからず数多くの会社訪問させていただいておりますが、心から湧き出る笑顔というのは、作り笑顔ではできません。

    チーム内が活き活きワクワクして活性化していることで自然体の素敵な笑顔になるのでしょうね。

    写真:伊那食品工業の塚越寛最高顧問(10年前に撮影)

    塚越寛さん

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    2025.01.17

    与えられた条件で最善を尽くす!

    何かに取り組む際に「あれがない、これがない」と、つい言い訳が出る。

    「与えられた条件の中で最善を尽くそう」と思える人は素晴らしい。

    そう思える人達が多い会社は逆境に強い会社であることは間違いありません。

    私の場合、最初は不満や言い訳が出ても、時間によって前向きになることができました。

    いかに、その時間を短縮するか。

    まだまだ、修行が足りない私です。

    朝焼け

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    2025.01.16

    「ある社員の話!」

    昨年3月に「人を大切にする経営学会」主催の「経営人材塾」を卒塾した息子(村田浩康)が「人を大切にする経営学会ブログ」に投稿(2022年926日)した記事を紹介します。

    長文です。

    何回読んでも目が潤みます。

    ・・・・・・・・・・・・・

    弊社の社員Sが亡くなった。
    享年68歳。肺がんだった。
    その日の事はよく覚えている。

    数日前には病室で目を合わせ、呼吸器に繋がれた状態だが、何気ない会話をしたばかりだった。
    ただし、あと数日の命だという事も、訪れた我々は分かっていた。

    彼は高校を卒業後、50年以上村田ボーリング技研にて勤めてくれた。
    汎用旋盤一筋の、わが社では凄腕の職人だった。
    頑固で口は悪いが、憎めないその性格から、社員の皆に愛されていた。
    タバコが大好きだった。
    彼は健康診断で“再検査”をいつの時期からか毎回出されるようになっていた。
    しかし、大の病院嫌いで医者にはかからなかった。

    2021年の15日。
    毎年恒例の経営計画発表会を行った。
    弊社としては、新事務棟が竣工して初めての発表会。
    全社員が一人ずつ抱負を述べる。
    彼は50年勤続表彰の対象者でもあった。
    表彰を受けた後のスピーチでこれまでの感謝を述べた後、
    67歳になった。おらはいつまで生きるか分からない」と言った。
    皆、冗談かと思い笑った。

    しかし翌年124日、就業中に病院へ救急搬送される。

    私は事務所で打合せ中だった。
    ガラス越しに彼が倒れるのが見えた。
    病名は肺がん。ステージ4
    あとから思えば予感はあったのだろう。
    彼は治療に専念するため、会社を休む事が決まった。

    数か月後、彼は突然作業着姿で通常通り出社する。
    薬が効いて体が楽になり、仕事がしたいという。
    朝礼から参加してくれた彼を、みんなは驚きながら拍手で迎えた。
    副作用で髪が短くなり、少しの痛ましさもありながら、
    まさかの復帰にみんな沸き立った。

    彼の機械はいつ戻ってきてもいいように、彼が普段ピカピカにしていた状態を、仲間で維持していた。半世紀握り続けたハンドル。すぐに戦力となった。

    だが、神様は長い時間をお与えにはならなかった。
    8月に入り、体調が優れず病院に行くと肺炎の診断がでた。
    医者からは「もってあと一か月」。
    あまりにも短い余命が宣告された。

    当時はコロナ禍で、面会謝絶が常だった。
    そんな中で我々の面会が許される頃には、彼は大部屋から個室に移っていた。
    訪れる人はその意味を考えながら、しかし顔には一切出さずに声を掛ける。
    「戻ってこいよ。みんな待ってるからな。」
    「Sさんの為に機械は綺麗にしたまんまだよ。」
    「口うるさいのが居ないと調子狂っちゃうんだよ。」
    受入なければならない厳しすぎる現実。
    だからこそ、みなで奇跡を信じた。

    彼には弟子がいた。
    歳の差は40以上。
    専門学校を卒業後、彼の技術を間近で教わった。
    元々のセンスの良さもあいまって、
    いつしか正当な後継者として、一目置かれるようになっていく。
    彼はSさんを心から尊敬していた。大好きだった。
    だが、彼はお見舞いにいかなかった。
    「もう、時間がないかもしれない。いかないのか?」
    「はい。弱った姿を見られるのは嫌だと思うんで。」
    “後悔しなければいいが…”と思ったが伝えられなかった。
    “辛い現実。受け入れ方は人それぞれか…”そんな風に受け止めた。

    そして時は来た。
    2022年926()未明 永眠。
    全員が信じた復帰はついぞ叶わなかった。
    もう二度と、彼が旋盤を触る日は来ないのだ。
    本当に悲しい人がほかにもいる。
    大声で泣きたい気持ちをぐっとこらえた。

    午後になり、夫人が来社された。
    これからの予定と一つのお願いの為だった。
    「主人の棺に、作業着を着させて入れてあげたいのですが、 お許しいただけますか。」
    「仕事が大好きだったから。主人も喜ぶと思って。」
    言葉にならなかった。
    そこにいた私たちは、全員泣いていた。
    心の底から嬉しかった。


    3日後、通夜式、告別式が執り行われた。
    彼は穏やかな顔で棺に入っていた。
    誰かが入れた、愛用の測定工具が手元に置かれていた。
    作業着を着ているためか、棺の中なのに最後まで格好良かった。

    式の会場から斎場へ向かう途中。
    夫人ともう一つ約束したことがあった。
    それは“寄り道”の約束。
    彼を乗せた霊柩車は国道一号線を曲がり、丸子工業団地へ入る。
    ここは日本でも最古に部類入る金属加工専門の団地だ。

    2番目の角を左に折れ、工場を横目に車が直進していく。
    “Sさん、今まで本当にありがとう”
    段ボールと模造紙で作ったお手製の垂れ幕。

    村田ボーリング技研の全社員で彼を迎えた。
    「Sさん、今までありがとうございました!!!!」
    代表が泣きながらお礼を述べる。
    「ありがとうございました!!!」
    続けて叫んだみんなも泣いていた。

    霊柩車は改めてクラクションを鳴らし、斎場へ向かった。
    手を合わせ、秋晴れの空に彼への感謝の誠を捧げた。

    …後日、弟子の彼が話してくれた事がある。
    実は彼はお見舞いに行っていたという。
    「みんなとは行きたくなかったんです。
    たぶん、顔を見たら何にも言えなくなると思ったから。
    だから有給をとって一人で行きました。
    言葉に詰まるだろうから、手紙を書いていったんです。」
    彼は号泣しながら、病室で手紙を読み上げたそうだ。
    Sさんはどんな気持ちでその手紙を聞き、受け取ったのだろうか。
    亡くなってすぐは昼食も食べられず、ふと思い出しては車の中で一人泣いていたという。
    互いの深い絆を感じたエピソードだった。

    同時に思った。
    私は誰かのその「ひとり」になれているのだろうか。
    思わず胸に手を当てた。

    坂本光司先生は「世の為人の為」を体現されている。
    だから多くの人が背中を追いかける。
    先生の傍に行くと、自分の「公の心」が引き出される。
    日々を過ごす中で曇りがちなその心に光が当たるのだ。

    “どう生きるのか”

    深くて広いこの問いを考え続けていきたいと思う。
    ………………………………………………………………
    村田ボーリング技研の村田です。
    稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございました。
    記録として残しておきたく、書かせていただきました。
    我が社の歴史を紡いでくれた大先輩。
    今の会社があるのは、先人先輩たちのお陰です。
    何を託されたのか。何を残さなければならないのか。
    改めて考える機会となりました。
    「いい会社」は終わりがありません。
    だからこそやりがいがあって、楽しいのだと思います。
    今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。
    人財塾6期生・村田ボーリング技研株式会社・村田 浩康

    佐野さん

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