社長ブログ
溶射屋
日々の気づきを投稿中

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「村田ボーリング技研」

2006_03/16

日の出 曇り 就職ガイダンス

8f4d5829.JPG 下の写真の数分後!
曇り空から光が射す。
「う〜〜ん 幻想的だな〜」

今日は静岡グランシップで、合同説明会と会社説明会。
大企業の就職協定とやらは表向きはあるそうだが、
表面下では多分動きがあると思う。
特に工学部は例年早い時期に決まってしまうので4月1日の解禁まで
まってられない?

2006_03/11

就職ガイダンス ベンチャー企業博

就職ガイダンス.JPG 今日、ザメディアジョン主催の「ベンチャー企業博」に参加してきた。
売り手市場と言われている中で熱心に就職活動する学生達。
企業側も学生も熱心に活動している。
各ブースが華やかなのにはビックリ!

2006_02/28

手児の呼坂

手児の呼坂.JPG 2月26日(日)静岡新聞日曜版 (1)面に掲載されました。


万葉を歩く

東路(あずまぢ)の
手児(てご)の呼坂(よびざか)
越えて去(い)なば
吾(あれ)は恋ひむな
後(のち)は逢ひぬとも

碑文は「あずまぢのてこのよびおさかこえていなばあれはこひむなのちはあひぬとも」
あなたは東路にある手児の呼坂を越えて、東国へ行ってしまう。また、いつの日か会うことができるとおっしゃるが、恋しくてならない。もしかしたら、再びお目に掛かることはできないかもしれない。旅すること自体が命懸けであり、一度離れてしまえば、再び会うことができるなど信じられない。そんな時代だっただけに、切ない思いが伝わる。
「東路の手児の呼坂越えがねて山に寝むも宿りはなしに」(東歌、未勘国歌)と歌われた名高い「手児の呼坂」はどこにあったのだろうか。
未勘国歌は駿河や遠江など、どこの国の歌か不明なものを指す。
手児の呼坂の諸説があり、はっきりと定まっていない。
安倍川を越えて国道1号線をしばらく行き、丸子の金属工業団地へ右折する。そのまま突き当たりまで進んでいくと、歌碑がぽつんと建っている。
農道を歩き、手児の呼坂へ向かう標識にあたる。
ほんのひと登りで「手児の呼坂」碑と案内板を見つけた。
林の中の峠は薄暗く、静寂に包まれている。
そのまま尾根筋を登っていくと、頂上辺りで大きく眺望が開けた。
富士山が目の前にあり、安倍川が目の前にあり、安倍川の向こうに当時、阿部の市(駿河の国府)と呼ばれたにぎやかな街並みが広がる。
ああ。ここが手児の呼坂なのだろう。
富士のふもと辺りを指さし、万葉の旅人になっていた。
(文・小林一哉 写真・塚原勝二)

この石碑は1993年4月に現在会長の村田保が建てた石碑です。

2006_02/27

両手振り運動

両手振り運動.gif 今日は曇りで太陽は見えなかった

朝の散歩時は会社に出勤してから裏山の農道を歩いているんだけれど、
ちょうど太陽が見えるところで「両手振り運動」を400回行っている。

これは「両手を思い切って後ろに振って
その両手を惰性で前に持ってくる」ことを
連続して行うもの。

船井総合研究所を総業した船井幸雄氏が推奨している。

船井さんも毎朝行っていて健康維持をしてるらしい。
運動を始める5年前はメガネが必要だった視力が
現在はメガネ無しでもいられる位に回復したんだって。

2006_02/24

金メダルおめでとう!

荒川静香.jpg 荒川静香「金メダル」おめでとう
五輪フィギュア日本初!
ラジオで聞いていて感動!
これで今回のオリンピックでの
日本人が抱いていたモヤモヤが吹っ飛んだのは間違いない!
とにかくおめでとう


以下静岡新聞ホームページより
(写真もお借りしました)


荒川が「金」 五輪フィギュア初の快挙

【トリノ23日共同】トリノ冬季五輪第14日の23日(日本時間24日朝)、フィギュアスケート女子で荒川静香(24)=プリンスホテル=が金メダルを獲得し、不振が続いた今大会の日本にようやく初メダルをもたらした。五輪フィギュアでの日本選手のメダルは1992年アルベールビル大会銀の伊藤みどり以来、2個目で、「金」は史上初の快挙となった。
 ショートプログラム(SP)で小差の3位だった荒川は、フリーで難度の高い技をこなして合計191・34点を挙げ、逆転優勝した。冬季五輪で日本の「金」は通算9個目。女子では長野大会スキー・モーグルの里谷多英以来、2人目の金メダリスト。
 村主章枝(avex)が4位入賞。安藤美姫(愛知・中京大中京高)は15位だった。
 荒川は16歳で出場した長野大会で13位。前回ソルトレークシティー大会は代表を逃したが、2004年世界選手権で日本選手として3人目の「世界女王」に輝いている。

2006_02/24

ボーリング大会

社内ボーリング大会.JPG 社内ボーリング大会!
滑って転んで「倒れて、お願い?」
奥さんや子供を連れて家族で参加
楽しい時間でした。
「え?僕のスコア???」

2006_01/26

父・村田 保

村田ボーリング技研・会長 村田保.jpg 集団化事業の全国草分けとして歴史を誇る静岡機械金属工業団地(協)の理事長。昨年一○月、組合法施行五五周年の記念式典で、同組合は経済産業大臣表彰を受賞した。
 「組合の功績が評価されて光栄です。共同受電事業や金融事業など組合事業は順調そのものだが、これは組合員の一致団結の賜物」と周囲に感謝する。
 理事長就任は平成三年。
 「今までの苦労? 特にないなあ」と笑顔でかわすが、前理事長の路線を継承しつつも組合金融の改革を敢行。バブル期に忍び寄った組合事業の歪みを、きっちりと修正した。
 「バブル崩壊で土地の担保価値が急落した。その分、転貸の融資枠引き下げが必要だと」。決断に際しては議論白熱する中、組合員の利便を損なわない代案を示し、理解を求めた。後に発生した組合員の倒産の際は、この決断が功を奏し組合は無傷で不測の事態を乗り切った。
 江戸時代から鍛冶屋を営む家系。昭和二年、静岡市に生を受け、父親のハンマーをふりおろす背中を見て育つ。学業を終えた昭和二〇年、三菱重工に就職するも病を患い人員整理の対象に。翌年には父親の交通事故を機に、二十八歳で家族七人を支える苦労もした。
しかし、持ち前の負けん気と旺盛なアイデアが自身を窮地から救う。その一つが、ヤミ市で仕入れたスルメだ。自前の機械を製作し、二回りも大きい“のしいか”に加工・販売することで、少なからずの利幅を得た。その後、回復した父親と共に「駅南村田鉄工所」を創業。昼夜なく働き、商売の原点を学んだのはこの頃だという。三二年、父親の急逝により三○歳で社長に就任した。
 昭和三八年の当団地移転後は、ひたすら溶射加工技術を追求。「世の中に絶対必要で他社と競合しない技術・製品を開発」「市場は小さくても技術力でナンバーワンをめざす」を戦略とし、業界トップクラスの地位を築いた。創業以来、赤字知らず。
 現在、県モラロジー経済同友会の会長職にあり、三方良し(相手も良し、第三者も良し、結果として自分も良し)の経営をめざす。
 旅行が楽しみで、キリストや釈迦、孔子など先人ゆかりの寺社、史跡を夫人と共に巡る。
中小企業静岡クローズアップインタビュー記事より
(2005年2月号No.615)
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