何かに取り組む際に「あれがない、これがない」と、つい言い訳が出る。
「与えられた条件の中で最善を尽くそう」と思える人は素晴らしい。
そう思える人達が多い会社は逆境に強い会社であることは間違いありません。
私の場合、最初は不満や言い訳が出ても、時間によって前向きになることができました。
いかに、その時間を短縮するか。
まだまだ、修行が足りない私です。
朝焼け
2025_01/17
何かに取り組む際に「あれがない、これがない」と、つい言い訳が出る。
「与えられた条件の中で最善を尽くそう」と思える人は素晴らしい。
そう思える人達が多い会社は逆境に強い会社であることは間違いありません。
私の場合、最初は不満や言い訳が出ても、時間によって前向きになることができました。
いかに、その時間を短縮するか。
まだまだ、修行が足りない私です。
朝焼け
2025_01/16
昨年3月に「人を大切にする経営学会」主催の「経営人材塾」を卒塾した息子(村田浩康)が「人を大切にする経営学会ブログ」に投稿(2022年9月26日)した記事を紹介します。
長文です。
何回読んでも目が潤みます。
・・・・・・・・・・・・・
弊社の社員Sが亡くなった。
享年68歳。肺がんだった。
その日の事はよく覚えている。
数日前には病室で目を合わせ、呼吸器に繋がれた状態だが、何気ない会話をしたばかりだった。
ただし、あと数日の命だという事も、訪れた我々は分かっていた。
彼は高校を卒業後、50年以上村田ボーリング技研にて勤めてくれた。
汎用旋盤一筋の、わが社では凄腕の職人だった。
頑固で口は悪いが、憎めないその性格から、社員の皆に愛されていた。
タバコが大好きだった。
彼は健康診断で“再検査”をいつの時期からか毎回出されるようになっていた。
しかし、大の病院嫌いで医者にはかからなかった。
2021年の1月5日。
毎年恒例の経営計画発表会を行った。
弊社としては、新事務棟が竣工して初めての発表会。
全社員が一人ずつ抱負を述べる。
彼は50年勤続表彰の対象者でもあった。
表彰を受けた後のスピーチでこれまでの感謝を述べた後、
「67歳になった。おらはいつまで生きるか分からない」と言った。
皆、冗談かと思い笑った。
しかし翌年1月24日、就業中に病院へ救急搬送される。
私は事務所で打合せ中だった。
ガラス越しに彼が倒れるのが見えた。
病名は肺がん。ステージ4。
あとから思えば予感はあったのだろう。
彼は治療に専念するため、会社を休む事が決まった。
数か月後、彼は突然作業着姿で通常通り出社する。
薬が効いて体が楽になり、仕事がしたいという。
朝礼から参加してくれた彼を、みんなは驚きながら拍手で迎えた。
副作用で髪が短くなり、少しの痛ましさもありながら、
まさかの復帰にみんな沸き立った。
彼の機械はいつ戻ってきてもいいように、彼が普段ピカピカにしていた状態を、仲間で維持していた。半世紀握り続けたハンドル。すぐに戦力となった。
だが、神様は長い時間をお与えにはならなかった。
8月に入り、体調が優れず病院に行くと“肺炎”の診断がでた。
医者からは「もってあと一か月」。
あまりにも短い余命が宣告された。
当時はコロナ禍で、面会謝絶が常だった。
そんな中で我々の面会が許される頃には、彼は大部屋から個室に移っていた。
訪れる人はその意味を考えながら、しかし顔には一切出さずに声を掛ける。
「戻ってこいよ。みんな待ってるからな。」
「Sさんの為に機械は綺麗にしたまんまだよ。」
「口うるさいのが居ないと調子狂っちゃうんだよ。」
受入なければならない厳しすぎる現実。
だからこそ、みなで奇跡を信じた。
彼には弟子がいた。
歳の差は40以上。
専門学校を卒業後、彼の技術を間近で教わった。
元々のセンスの良さもあいまって、
いつしか正当な後継者として、一目置かれるようになっていく。
彼はSさんを心から尊敬していた。大好きだった。
だが、彼はお見舞いにいかなかった。
「もう、時間がないかもしれない。いかないのか?」
「はい。弱った姿を見られるのは嫌だと思うんで。」
“後悔しなければいいが…”と思ったが伝えられなかった。
“辛い現実。受け入れ方は人それぞれか…”そんな風に受け止めた。
そして時は来た。
2022年9月26日(月)未明 永眠。
全員が信じた復帰はついぞ叶わなかった。
もう二度と、彼が旋盤を触る日は来ないのだ。
本当に悲しい人がほかにもいる。
大声で泣きたい気持ちをぐっとこらえた。
午後になり、夫人が来社された。
これからの予定と一つのお願いの為だった。
「主人の棺に、作業着を着させて入れてあげたいのですが、 お許しいただけますか。」
「仕事が大好きだったから。主人も喜ぶと思って。」
言葉にならなかった。
そこにいた私たちは、全員泣いていた。
心の底から嬉しかった。
3日後、通夜式、告別式が執り行われた。
彼は穏やかな顔で棺に入っていた。
誰かが入れた、愛用の測定工具が手元に置かれていた。
作業着を着ているためか、棺の中なのに最後まで格好良かった。
式の会場から斎場へ向かう途中。
夫人ともう一つ約束したことがあった。
それは“寄り道”の約束。
彼を乗せた霊柩車は国道一号線を曲がり、丸子工業団地へ入る。
ここは日本でも最古に部類入る金属加工専門の団地だ。
2番目の角を左に折れ、工場を横目に車が直進していく。
“Sさん、今まで本当にありがとう”
段ボールと模造紙で作ったお手製の垂れ幕。
村田ボーリング技研の全社員で彼を迎えた。
「Sさん、今までありがとうございました!!!!」
代表が泣きながらお礼を述べる。
「ありがとうございました!!!」
続けて叫んだみんなも泣いていた。
霊柩車は改めてクラクションを鳴らし、斎場へ向かった。
手を合わせ、秋晴れの空に彼への感謝の誠を捧げた。
…後日、弟子の彼が話してくれた事がある。
実は彼はお見舞いに行っていたという。
「みんなとは行きたくなかったんです。
たぶん、顔を見たら何にも言えなくなると思ったから。
だから有給をとって一人で行きました。
言葉に詰まるだろうから、手紙を書いていったんです。」
彼は号泣しながら、病室で手紙を読み上げたそうだ。
Sさんはどんな気持ちでその手紙を聞き、受け取ったのだろうか。
亡くなってすぐは昼食も食べられず、ふと思い出しては車の中で一人泣いていたという。
互いの深い絆を感じたエピソードだった。
同時に思った。
私は誰かのその「ひとり」になれているのだろうか。
思わず胸に手を当てた。
坂本光司先生は「世の為人の為」を体現されている。
だから多くの人が背中を追いかける。
先生の傍に行くと、自分の「公の心」が引き出される。
日々を過ごす中で曇りがちなその心に光が当たるのだ。
“どう生きるのか”
深くて広いこの問いを考え続けていきたいと思う。
………………………………………………………………
村田ボーリング技研の村田です。
稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございました。
記録として残しておきたく、書かせていただきました。
我が社の歴史を紡いでくれた大先輩。
今の会社があるのは、先人先輩たちのお陰です。
何を託されたのか。何を残さなければならないのか。
改めて考える機会となりました。
「いい会社」は終わりがありません。
だからこそやりがいがあって、楽しいのだと思います。
今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。
人財塾6期生・村田ボーリング技研株式会社・村田 浩康
佐野さん
2025_01/15
昨年、11月から12月にかけて「年賀状じまい」のハガキがいくつか届きました。
送り先きを確認しても、取り引きがあったかしらというところばかり。
昨年10月に郵便料金が値上になりましたが、これをきっかけに年賀状じまいや、デジタル通信により拍車が掛かったのではないかと思われます。
しかし、これからはアナログ通信のほうが、より印象に残るせる手段となていくのも事実なんでしょうね。
年賀状じまい
2025_01/14
先日、学習教材制作会社から問合せがありました。
私がSNSに投稿した「新幹線レールの継ぎ目」の写真を教材で使いたいとのこと。
もちろん「OK」
昨年も、「小学生の教科書に使いたい」との問い合わせがあり、教科書にも取り上げていただきました。
自分が投稿した写真がこんな風に使って頂けるなんて嬉しい限り。
Googleで「新幹線レールの継ぎ目」と検索すると、91,000件中の一番上に出てくるのも嬉しいです!!
Yahoo!検索でも一番上でした\(^o^)/
新幹線レールの継ぎ目
2025_01/13
先日金曜日の最強寒波の日。
東京出張に行く予定でしたが、東海道新幹線が40分以上遅れていました。
予定の新幹線に乗れず、新幹線改札口でどうしたものかと考えていたら、近くにいた第一テレビの取材クルーに「取材してもいいですか?」と声を掛けられました。
「新幹線が遅れたことによる影響はありますか?」
こんな問いかけでした。
以前はテレビカメラが目の間にあるとドキドキしたものですが、歳を重ねるごとに度胸が据わるせいか冷静に話すことができました。
報道されないんだろうなぁと思っていましたが、3人から「テレビみたよ」と連絡が入り2人からはテレビ画面を録画した画像も送ってくれました。
静岡にはテレビ局が5つあるので、よくみれたものだなと感心してしまいます。
2025_01/12
4月に入塾した、「人を大切にする経営学会」主催の経営勉強会で学ぶ機会を得ています。
講義は金曜日の午後と土曜日の1日なので金曜日は都内に宿泊。
会場が皇居近くなので「土曜日の早朝に皇居を走りましょう」ということで12月から数人で走り始めました。
こんな機会がないと皇居を走る機会がないので今回初参加(1月11日土曜日)。
早朝6時20分に集合場所からスタートし、1kmを8分前後のゆっくりとしたスピードで景色を楽しみながら走りました。
とっても気持ち良かったです。
卒塾までの3月まで、あと2回走れるのが楽しみ。
皇居らん
2025_01/11
昨年末にアメリカ元大統領のカーター氏が100歳で亡くなったという報道がありました。
日本とアメリカの100歳まで生きるということはいったいどれくらいいるのか調べてみました。
日本の出生数(大正14年)は約2,086,000人。
1925年生まれの日本人の中で2025年まで生存している割合:
男性: およそ 0.05%(2,000人に1人)未満
女性: およそ 0.1%(1,000人に1人)未満
現在の生存数を計算すると
男性104,300人
女性208,600人
アメリカの1925年の出生数は、約2,910,000人
生存率 全体: 約 0.1%(1,000人に1人)未満
現在の生存数291,000人
日本の男性が100歳までの生存数が約0.05%。
確率は相当低そうです・・・。