時代劇などで見かける江戸時代の移動そば屋。
どのようなシステムになっているのか気になっていたので、調べてみました。
冷たいそばなのかなと思っていましたが、主に暖かいそばだったらしいです。
それにしても、装備を充実すればするほど重量が増えたことは間違いないので、移動する際は相当な重労働だったんでしょうね。
・・・・・・・・・・
江戸でのそばの普及には、店を構えたそば屋だけでなく、夜そば売りが大きく貢献していた。
夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになったのは、市中にそば屋が目立って増え始める18世紀半ば以降よりも、少なくとも20年ほど遡る。
夜そば売りが重宝されたのは、ほかの飲食店が閉まっている夜中に営業していた。(夜9時から明け方まで)
一定の場所に店を構えるのではなく、一人で担ぐ「担い屋台」で自由に場所を移動した。
江戸時代には、大八車のように車輪のついた屋台はまだなかった。
屋根には市松模様が描かれることが多く、風鈴が吊るされ、音で蕎麦売りの存在を知らせる役割を果たしていた。
調理設備として、茹で釜と七輪が備え付けられ、その場で蕎麦を茹でて提供できる簡易調理システムが
整っていた。
担い屋台の構造と機能(一例)
右側の箱(キッチンセット)
上段:調味料(麺つゆ、唐辛子など)や燗酒用の道具。
中段:茹で釜。
下段:七輪と水桶。
左側の箱(ストッカー)
上段:蕎麦猪口やどんぶり
中段:蕎麦やうどん玉を収納する棚
下部:箸入れやその他の道具
担い屋台そば
コメント(1)
おはようございます。
昭和の時代は軽自動車の夜泣き蕎麦屋が多かったですが、コンビニができて消えました。のつくあ