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2024年10月31日

2024_10/31

「村田ボーリング技研のSさん」

弊社の社員Sが亡くなった。
享年68歳。肺がんだった。
その日の事はよく覚えている。

数日前には病室で目を合わせ、
呼吸器に繋がれた状態だが、何気ない会話をしたばかりだった。

ただし、あと数日の命だという事も、訪れた我々は分かっていた。

彼は高校を卒業後、50年以上村田ボーリング技研にて勤めてくれた。
汎用旋盤一筋の、わが社では凄腕の職人だった。

頑固で口は悪いが、憎めないその性格から、
社員の皆に愛されていた。
タバコが大好きだった。

彼は健康診断で“再検査”をいつの時期からか毎回出されるようになっていた。
しかし、大の病院嫌いで医者にはかからなかった。

2021年の1月5日。
毎年恒例の経営計画発表会を行った。
弊社としては、新事務棟が竣工して初めての発表会。
全社員が一人ずつ抱負を述べる。

彼は50年勤続表彰の対象者でもあった。
表彰を受けた後のスピーチでこれまでの感謝を述べた後、
「67歳になった。おらはいつまで生きるか分からない」と言った。
皆、冗談かと思い笑った。

しかし翌年1月24日、就業中に病院へ救急搬送される。

私は事務所で打合せ中だった。
ガラス越しに彼が倒れるのが見えた。
病名は肺がん。ステージ4。
あとから思えば予感はあったのだろう。
彼は治療に専念するため、会社を休む事が決まった。

数か月後、彼は突然作業着姿で通常通り出社する。
薬が効いて体が楽になり、仕事がしたいという。
朝礼から参加してくれた彼を、みんなは驚きながら拍手で迎えた。
副作用で髪が短くなり、少しの痛ましさもありながら、
まさかの復帰にみんな沸き立った。

彼の機械はいつ戻ってきてもいいように、
彼が普段ピカピカにしていた状態を、仲間で維持していた。
半世紀握り続けたハンドル。すぐに戦力となった。

だが、神様は長い時間をお与えにはならなかった。

8月に入り、体調が優れず病院に行くと“肺炎”の診断がでた。
医者からは「もってあと一か月」。
あまりにも短い余命が宣告された。

当時はコロナ禍で、面会謝絶が常だった。
そんな中で我々の面会が許される頃には、
彼は大部屋から個室に移っていた。
訪れる人はその意味を考えながら、
しかし顔には一切出さずに声を掛ける。
「戻ってこいよ。みんな待ってるからな。」
「Sさんの為に機械は綺麗にしたまんまだよ。」
「口うるさいのが居ないと調子狂っちゃうんだよ。」
受入なければならない厳しすぎる現実。
だからこそ、みなで奇跡を信じた。

彼には弟子がいた。
歳の差は40以上。
専門学校を卒業後、彼の技術を間近で教わった。
元々のセンスの良さもあいまって、
いつしか正当な後継者として、一目置かれるようになっていく。
彼はSさんを心から尊敬していた。大好きだった。

だが、彼はお見舞いにいかなかった。

「もう、時間がないかもしれない。いかないのか?」
「はい。弱った姿を見られるのは嫌だと思うんで。」
“後悔しなければいいが…”と思ったが伝えられなかった。
“辛い現実。受け入れ方は人それぞれか…”そんな風に受け止めた。

そして時は来た。
2022年9月26日(月)未明 永眠。

全員が信じた復帰はついぞ叶わなかった。
もう二度と、彼が旋盤を触る日は来ないのだ。
本当に悲しい人がほかにもいる。
大声で泣きたい気持ちをぐっとこらえた。

午後になり、夫人が来社された。
これからの予定と一つのお願いの為だった。

「主人の棺に、作業着を着させて入れてあげたいのですが、
 お許しいただけますか。」
「仕事が大好きだったから。主人も喜ぶと思って。」

言葉にならなかった。
そこにいた私たちは、全員泣いていた。
心の底から嬉しかった。

3日後、通夜式、告別式が執り行われた。
彼は穏やかな顔で棺に入っていた。
誰かが入れた、愛用の測定工具が手元に置かれていた。
作業着を着ているためか、棺の中なのに最後まで格好良かった。

式の会場から斎場へ向かう途中。
夫人ともう一つ約束したことがあった。
それは“寄り道”の約束。

彼を乗せた霊柩車は国道一号線を曲がり、
丸子の工業団地へ入る。
ここは日本でも最古に部類入る金属加工専門の団地だ。

2番目の角を左に折れ
工場を横目に車が直進していく。

“Sさん、今まで本当にありがとう”

段ボールと模造紙で作ったお手製の垂れ幕。
村田ボーリング技研の全社員で彼を迎えた。

「Sさん、今までありがとうございました!!!!」
代表が泣きながらお礼を述べる。
「ありがとうございました!!!」
続けて叫んだみんなも泣いていた。

霊柩車は改めてクラクションを鳴らし、
斎場へ向かった。

手を合わせ、秋晴れの空に彼への感謝の誠を捧げた。

…後日、弟子の彼が話してくれた事がある。
実は彼はお見舞いに行っていたという。

「みんなとは行きたくなかったんです。
たぶん、顔を見たら何にも言えなくなると思ったから。
 だから有給をとって一人で行きました。
 言葉に詰まるだろうから、手紙を書いていったんです。」

彼は号泣しながら、病室で手紙を読み上げたそうだ。
Sさんはどんな気持ちでその手紙を聞き、受け取ったのだろうか。

亡くなってすぐは昼食も食べられず、
ふと思い出しては車の中で一人泣いていたという。

互いの深い絆を感じたエピソードだった。

同時に思った。
私は誰かのその「ひとり」になれているのだろうか。
思わず胸に手を当てた。

坂本先生は「世の為人の為」を体現されている。
だから多くの人が背中を追いかける。
先生の傍に行くと、自分の「公の心」が引き出される。
日々を過ごす中で曇りがちなその心に光が当たるのだ。

“どう生きるのか”

深くて広いこの問いを考え続けていきたいと思う。

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村田ボーリング技研の村田です。
稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございました。
記録として残しておきたく、書かせていただきました。
我が社の歴史を紡いでくれた大先輩。
今の会社があるのは、先人先輩たちのお陰です。
何を託されたのか。何を残さなければならないのか。
改めて考える機会となりました。
「いい会社」は終わりがありません。
だからこそやりがいがあって、楽しいのだと思います。
今後ともご指導の程、よろしくお願い申し上げます。

Sさん

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