以下、元侍従長 木下道雄著「新編 宮中見聞録 昭和天皇にお仕えして」・皇居勤労奉仕発端の物語の抜粋!
・・・・・・・・・昭和20年、当時の皇居御門には占領軍の歩哨が立っている。二重橋前の十万坪の広場にあった60余ヶ所の照明灯は管理の統制を欠いたために一つ残らず破壊され、皇居内の宮殿も含めて木造建築物はほとんど消失してしまう状況であった。
二重橋前の広場に雑草が生い茂い、荒れているということを聞いた宮城県栗原郡(現・栗原市)の若者60数人が、天皇陛下のために動くと占領軍に検挙されてしまうかもしれないという覚悟で上京してきた。
草取りや掃除のために来たと皇宮警察官を通して宮内省への申し入れがあった。本来、県知事に挨拶してくるべき所を、迷惑が掛かるかもしれないということで、黙ってきたという。
一同は人出不足のため、片付けができないでいた皇居内の宮殿焼跡に散乱している破片を片付けることになり、三日後には何万個という瓦や石の破片が見事に積み上げられた。
青年たちが皇居内の清掃を手伝ってくれるということは両陛下にも伝わっていて、作業が始まるという朝、陛下が皆に会いたいとのご希望があり、青年とのご対談が始まったのである。
陛下は、遠いろころを来てくれてありがとう、郷里の農作の具合はどんなか、地下足袋は満足に手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不自由ないかなど、ご質問は次から次えと、なかなか尽きない。
かれこれ10分間ほどお話しがあり、何とぞ国家再建のために、たやまず精を出して努力して貰いたい。とのお言葉を最後に一同とお別れになり、2〜30歩お歩きになったとき、突如、列中から沸きおこったのが君が代の合唱であった。
陛下はおん歩みをとめさせられ、じっと、これを聞き入っておいでになる。一同はご歩行をお止めしては相済まぬと早く唄い終わらなければと、あせればあせるほどその歌声はどだえがちになり、はては嗚咽の声に代わってしまった。
万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった。誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しい悲しさではない。なにかしら言い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもったこの悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。
陛下はこのご対談に何かよほどお感じになった様子で第2回からは両陛下お揃いで奉仕のお会いになることになり、それが皇居勤労奉仕となって70年経った今でも続いている。・・・・・・・・・・
現在で奉仕団との対談は、両陛下と皇太子殿下・妃殿下のご会釈という形で、ご公務として皇居と赤坂御所で行われています。
皇居勤労奉仕団
2016年3月8日
2016_03/08