次郎長の墓がある梅蔭禅寺 静岡県静岡市い清水区内にある梅蔭寺(ばいいんぜんじ)は「清水の次郎長」のお墓がある寺! (このお寺から徒歩5分程度の場所に生家があります) 清水の次郎長(1820年〜1893年)は本名「山本長五郎」 文政3年(1820年)清水市美濃輪の船持ち船頭の三男に生まれたが母方の叔父である米穀商「甲田屋」主の山本次郎八の養子となる。 次郎長の名前は、幼少時代の仲間に「長」と言う子供がいたため長五郎のことを「次郎八」の家の「長五郎」で「次郎長」と呼ばれた。 1843年(23歳)で甲田屋の主人となっていた次郎長は人を斬り清水を出て無宿渡世の門をくぐる。 諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水港に一家を構えた。 梅蔭寺 遺物館 梅蔭禅寺看板と博打道具 1868年(48歳)3月から7月まで東征府判事から街道警固役を任命され静岡県の駿河、遠江、愛知県三河の地域の治安維持に当る。 戊辰戦争中に海軍艦隊を脱走した咸臨丸が暴風雨にあい清水港で修理のために清水港に停泊をしてたところを新政府軍艦隊に発見され見張りのために船に残っていた船員全員が死亡。 その後逆賊として駿河湾に放置された遺体を新政府軍よりとがめられながらも「死者に官軍も賊軍もない」として収容して埋葬した。 この時、静岡藩大判事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟はこれを深く感謝したとされる。 博打を止めた次郎長は清水港開港に尽力し、英語教師を招いて青年に英語を教え、晩年は開墾事業に没頭し、三保・日本平・富士市裾野大開墾など幾多の社会公益の為に尽くした。 明治26年(1893年)享年74歳をもって天寿をまっとする。 今回「清水の次郎長」をご紹介いたしましたが、皆さんが知らない以外な一面があることをお分かり頂けたかと思います。 今日は真面目な内容の溶射屋でした(*^-^*) ちなみに三保は昨年の静岡で開催したポータルサイトサミット翌日の早朝撮影会に行った場所です。 次郎長の墓石は賭博打ちが縁起を担いで削っていくので何代かめの墓石だそうだ。 次郎長一家の墓石 右から、仙右ェ門・小政・大政・石松・清水次郎長・一代目お蝶・二代目お蝶・三代目お蝶(お蝶は妻のこと) この「静岡の溶射屋」は果たして静岡を変えることが出来るのだろうか? 大きな地図で見る 静岡市清水区 梅蔭寺